(全文掲載)最終弁論 意見陳述

 2021年12月24日に札幌地裁で開かれたヤジ排除国賠訴訟の最終弁論において、二人の原告と代理人(弁護士)が結審前に語った内容を掲載します。


原告1(大杉雅栄)意見陳述

 裁判の原告の一人として、この裁判を通して考えていることと裁判所に求めることについて、あらためて述べます。

1,刑事事件としての「敗北」

 私がこのヤジ排除裁判を提訴してから、今月で丸二年が経過しました。この間のことを振り返ると、興味深い経験ができた一方で、苦しい思いをすることが多かったのも事実です。

 実際、この問題をめぐる法的手続きにおいては、私たち当事者の側が「敗北」を重ねてきました。私が刑事告訴をした二ヶ月半後、札幌地検は警察官による強引な排除行為について「適法であるため、罪とならず」として、不起訴処分を下しました。その翌日には、当事者である北海道警察が「警察官による措置は適法だった」との見解を道議会で示しました。違法行為を追及する側の検察と、追及される、容疑者であるはずの警察がほぼ同時に見解を示し、そしてその内容が奇妙なほど一致しているのは何故なのか。そこに癒着のようなものがなかったのか。いま考えても疑問に思われます。

 しかし、そのような検察の不審な決定は他の機関においてもことごとく追認されてきました。検察の不起訴事件をあらためて審査する検察審査会においても、付審判請求における札幌地裁(刑事部)においても同様の判断が下され、検察による不起訴処分は支持されました。これは、道警を監督するはずの北海道公安委員会にあっても同様です。

2,統治機構の機能不全

 こうしたことから言えることはなにか。それは、権力の濫用を防ぐためのチェック機構が、この国ではほとんど機能していないということです。この国の憲法その他の法規においては、「法の支配」「法治主義」といった理念が高らかに掲げられています。そこでは、一見すると権力の濫用を防ぐためのチェックが何重にも設けられているようにも見えます。しかし実際には警察組織が白昼堂々、違法行為をはたらき、市民の政治的自由を奪うようなことをしても、その行為を正面から裁くことができない。形骸化した機関が馴れ合いと事なかれ主義に染まり、目の前にある問題を直視することができない。それによって、法を犯しながらも法に裁かれない人間が超然と居直っているというのが、この国の現実なのです。
 市民が、その責任を追及しようとしても、まるで治外法権ともいえる見えない壁に阻まれ、解決どころか真実にすらたどり着けない。現場の警察官から、たった一言の謝罪を聞くことさえ、果てしなく難しい。そのことを実感するような二年間でした。

 そして、これら一つ一つは、単に自分の求めている結果が得られないということに留まらず、この国の掲げる法治主義というものに対する、市民の信頼をも破壊するものでもあります。少なくとも、私にはこの社会が自由と民主主義を実現していると信じることは極めて難しい。不自由で、非民主的で、理屈の通らない国で暮らすことに対する失望感と不信感が日々心のなかに積もっていくのを感じています。

 そして、これは決して本件においてのみ起きている現象ではありません。この裁判が始まるのと時を同じくしてコロナ禍がはじまり、その中で安倍晋三氏は突然、首相の座を退きました。しかし、彼の首相在任中に生じた無数の疑惑や憲法違反が疑われる言動については、何一つと言ってよいほど説明がなされていません。それについて、捜査機関をはじめ、司法も立法も十分に切り込むことのできないまま現在に至っています。それは、警察という権力機関が、治外法権によって守られていることと相似形であるといえます。

 コロナ禍における政府の無作為などとも合わせて考えた時、この国には果たして法治主義、あるいは統治というものをめぐる正統性があると言えるのか。一体、この国は誰のために、なんのために存在しているのか。そうした疑念さえも心の中に膨らんでいきます。

3,本訴訟で問われていること

 今回の裁判の主たる争点は、排除場面における警職法の適用が適切だったのか、ということにあります。しかし、この裁判を通して問われていることは、そのような個別の法律論に留まるものではありません。
 政府の最高責任者を名指しで批判する言論の自由、表現の自由が認められるのかどうか。違法な暴力行為、言論弾圧を行った警察組織が裁判所によって裁かれるのか、それとも治外法権がまたしても追認されるのか。この国が掲げる法治主義や統治というものに正統性があるのかどうか。つまるところ、この国は民主主義を続けるのか、それとももうやめるのか。それこそがこの裁判を通して本当に問われていることであり、多くの市民やメディアがこの問題に関心を寄せる理由であると思います。
 裁判所に対しては、このような社会的文脈の中にある訴訟の意味を決して見失うことなく、厳正なる判断を下すことを強く期待します。


原告2(桃井希生)意見陳述

 道警ヤジ排除事件が起きてから2年以上が経ちました。

 あの日、わたしはヤジを飛ばしただけで、ほとんど何の説明もないまま強制的に排除され、その後1時間以上つきまとわれました。
 その中でなされた説明と言えば、暴れていないのに「暴れないでほしい」とか、「大きな声出すと周りがびっくりしちゃう」とか、「あっち行かないでほしい」などのお願いばかりで、今道警が主張しているような具体的な危険についての話はなく、あまつさえ「ジュース買ってあげる」などのごまかしが続きました。

 わたし自身が誰かを攻撃していたり、わたしが誰かに攻撃されていたのであれば、逮捕や事情聴取などをするべきだろうと思いますが、道警から出される言葉は「お願い」ばかりで、しかしそれを拒否しても自由は奪われたままでした。「具体的な危険があった」と言うならば、なぜ「お願い」なのか、なぜ「ジュースを買ってもらえる」のか。
 わたしには、反対意見のヤジを飛ばしたこと以外に、どうして自分がこのような目にあっているのか分かりませんでした。

 道警は「ヤジったから排除した訳ではない」と口では言っています。しかし、今回の道警の行為の違法性が認められなければ、ヤジは実質的に飛ばせなくなります。お上に都合の悪いヤジを飛ばした人にだけ些細な挙動をあげつらって、「暴れた」ことをでっち上げるのは簡単だからです。

 ヤジは自分の意見を言うための手段のひとつに過ぎません。しかし公共の場でヤジさえ飛ばせない社会で、一体どのような表現の自由が認められるというのでしょうか。「危険の可能性」だけで排除されてしまうのであれば、それは表現の自由と言えるのでしょうか。

 政治的な意見表明は政治家など一部のエライ人だけができるものではありません。肩書がなく、組織もなく、友人さえいなくても、どのような人にでも表現の自由はあります。それが人権というものだと思います。
 さまざまな不平等、明らかな差別がはびこるこの社会では、それに抵抗する声をあげなければ、わたしやわたしたちは尊厳を持って生き続けることができません。
 この裁判が、ヤジぐらい言える社会であることを、表現の自由が当たり前に保障される社会であることを認めるものになるよう望みます。


代理人(上田文雄弁護士)意見陳述

 本訴訟は、時の内閣総理大臣が公道において、政治家として選挙応援・街頭演説を行った際、原告らが肉声で異見を発したところ、北海道警察が原告らを実力で強制排除した事件であって、これにより原告らの身体的精神的自由、なかんずく原告らの「表現の自由」が侵害されたことで発生した損害の賠償を求めるものである。

 およそ警察官の実力行使には法的根拠がなければならない。警察法は警察が「個人の権利と自由を保障する」(1条)ための組織であり、警察は「不偏不党の公平中正を旨とし、いやしくも日本国憲法の保障する個人の権利及び自由の干渉にわたる等その権限を濫用することがあってはならない」(同法2条2項)と定め、主観的・恣意的判断による警察活動によって国民の基本的人権を侵害しないよう厳しく戒める。

 しかるに、被告は原告らの「表現の自由」を制約する実力行使をしておきながら、その法的根拠を長期間にわたり説明できなかった。
 その理由は、原告らの発言行為自体が憲法の保障する「表現の自由」の正当な権利行使であり、原告らの権利行使が制約をうけるやむを得ない事由を容易に見出しがたかったからである。
 被告がようやく説明したのが、警職法4条1項(危害を受けるおそれ)と同法5条(犯罪がまさに行われようとする)である。だが、この説明は客観的証拠の裏づけを欠き、原告らが体験した事実に照らし違和感を禁じえず「後付けの理屈」の感を脱することができない。故に、この間、原告らが詳細な反駁を尽くしてきたところである。

 例えば、原告1に対する排除行為の発端について見るならば、警備担当警察官が原告1の「安倍やめろ!」との発言を感知するや、間髪を入れず発言現場に臨場し、直ちに原告1を移動させる活動に入るが、その根拠は原告1の発言に反応した周りの(自撮り棒を持った)男が手拳で原告1を押す行動が現認され、原告1とのトラブル発生の危険を回避するため移動させる必要があったとの説明である。
 原告1はかかる事実を否認するが、仮に被告主張の事実があったとしても、前記警察法に照らし、警察官はこの場合いったい誰の権利を保護しなければならないのか。原告1が正当な「表現の自由」を行使しているのだから、その実現を図るのが使命であり、手拳で原告1を押しこれを妨害する行動こそ制止の対象とするのが警察の職責である。しかし警察官の実力行使は護られるべき原告1に向けられ、原告1をその場から強制移動し、その表現の権利を封ずる行動に終始した。これを違法と言わずして何であろうか。

 原告2に対する排除行為についても、「増税反対!」と至極まっとうな政治的主張をする原告2に対して、周りの聴衆のなかに原告2を「にらみつける」者、嫌悪感を持つ聴衆が存在したから、原告2との間でもめ事が起こることは必至であり犯罪発生の危険が切迫していたというのが、原告2を強制移動させた理由だという。
 しかし、その際警察官が原告2に掛けた発言は「落ち着きなさい」というものである。まっとうな意見を表明している者に対して「落ち着ついて」とは何たる侮辱だろうか。原告2が警察官に移動させられる法的根拠を尋ねてもまともに取り合わず、不条理な扱いに抗して最低限の非暴力的な抵抗を試みる原告2を「興奮状態」と決めつけ、あたかも前後不覚の異常状態にあるがごとき扱いをしたのは、警察法2条2項が固く禁ずるところの「いやしくも日本国憲法の保障する個人の権利及び自由の干渉にわたる」行為そのものであり、民主警察のなすべき警察活動とは断じて評価しがたい。
 あまつさえ、これを契機に1時間を超える長時間にわたり原告2を有形無形に拘束し付きまとい、その自由意思に基づく行動抑制をした行動のどこをとってみても適法な警察活動と評価する余地はない。

 天下の公道で政治家の行う街頭演説に対して、一般市民である原告らが異議を申し立て,異なる意見を主張発言することが、あたかも異常で危険人物であるかの如き偏見に満ちた警察官の対応からは、原告らの「表現の自由」を如何に擁護しようとしたか、その配慮の姿勢が全く認められず、「公平中正」を旨とする警察活動であったとは到底評価することは出来ない。

 日頃から困難な業務遂行のために懸命に努力している警察官に対して敬意を表することにやぶさかではないにしても、ひとたび偏見に満ちた価値判断に基づき誤った実力行使に及べば、重大な人権侵害と民主主義の破壊をもたらすことになることを念頭に、本件の事実認定に当たっては、偏見を廃し公正なる判定が下されなければならない。

 警察官の実力行使の正当性に関する立証責任は被告にあると、裁判所は明言し明快な訴訟指揮のもとで本日結審の日を迎えた。

 原告らの行為が「表現の自由」の権利行使である以上、これに制限を加えた警察の行為が「明白かつ現在の危険」があってのことなのか、また警察官らが認識した事実のもとで「より制限的でない他に選びうる手段」を講ずることは出来なかったのかについても、公正かつ厳密なる判断を頂きたく、日本の民主主義の砦としての貴裁判所に期待するものである。
                          


第一審の判決言い渡しは、2022年3月25日(金)10:30 札幌地裁にて。

みなさんの傍聴をお待ちしております。

(全文掲載)最終弁論 意見陳述」への1件のフィードバック

  1. 2014年安部晋三に依る三権分立の破壊、内閣人事局(司法長官、官僚の人事権を内閣が不正取得)により、内閣の無法状態、大暴走が始まった。内閣人事局は憲法改正にあたるのにその手続がなされていないので無効です。これを足がかりに、NHKをはじめ報道機関と内閣の威圧的な報道協定が結ばれた。この2つの憲法違反にもかかわらず、存在出来ている事により、権力の内閣一極集中状態になっているのです。国賠は、赤木さんの様な特例以外は勝てる事は無いと考えざるをえないと思います。まさか、警察まで内閣人事局の影響が及んでいるとは、驚きです!報道協定により、この裁判の事も報道されないので、私は、初めて知りました。すべての過ちは内閣人事局が憲法違反にもかかわらず、国会で賛成多数のみで創設されたことによるものです。憲法改正は、両院議員の三分の二の賛成の上で、国民投票で過半数の賛成が必要なのです。この時、憲法違反に気付かなかった議員が一人でもいたとしたなら、それ自体が大変恥ずかしい、利権にのみとらわれる、税金泥棒が国会内に潜り込んでいるにすぎない。各都道府県代表の議員は、恥ずかしくないのか?子や孫に胸を晴れるのか?この内閣人事局が存在しているのは、国会議員による人災です。何故内閣人事局が憲法違反であるから無効です。と声を挙げる人がいないのか?!この裁判も、森友、加計、桜、半返し、等々の問題も、内閣人事局の廃止が出来れば、全て正しい形で解決へと向かう筈です。どうかこの事実を全国民に拡散して頂けないでしょうか?出来れば、夏の選挙で野党の公約に内閣人事局、報道協定の廃止を公約にする様助言して頂けないでしょうか?よろしくおねがいします。

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